頭の中はいつもヴェルディ/編集長のコラム Vol.11
編集長のコラム Vol.11
真珠湾から・・・平和への祈りを込めて
日米開戦から75周年…すなわち、日本による真珠湾攻撃から75年目を迎える2016年12月、できることならばその記念日にハワイを訪れたいと私は願っていた。しかし、パールハーバー・メモリアル直前の12月5日、日本の安倍首相は26〜27日にハワイを訪れ、オバマ合衆国大統領と共に真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することを発表した。「第2次世界大戦で日米開戦の舞台となった真珠湾を日本の現職首相が訪問するのは初めて」と大々的に喧伝されたが、実は1951年9月、吉田茂当時首相がサンフランシスコ平和条約に署名した帰途、当時は経由地であったハワイのホノルルで、太平洋艦隊司令長官アーサー・ウィリアム・ラドフォードを訪問しており、日本軍によって撃沈され、1,100名以上に及ぶ死者を出したUSSアリゾナの追悼モニュメントはまだ建設されていなかったが、真珠湾に面したラドフォードのオフィスの窓からは、まさにその沈没ポイントが見えていたという。外交誌『フォーリン・アフェアーズ』の出版元で、アメリカの対外政策に大きな影響力を持つとされるCFR(Council on Foreign Relations)の日本研究シニア・フェロー、シーラ・A・スミスの記事によれば、窓からの光景を目の当たりにした吉田の心中を慮ったラドフォード海軍大将は、吉田にとって気まずい会話にならないようにと、終始彼のペットの愛犬の話をして過ごしたと後日回想していたそうだ。したがって、安倍氏は戦跡アリゾナ・メモリアルを訪れる日本初の現職首相であるのは事実だが、戦後、真珠湾を初めて訪れた日本の首相は吉田茂ということになる。
- Photo:アリゾナ・メモリアル・プレース
戦艦アリゾナ追悼モニュメントは湾内に浮かぶ ⒸAgrospacia
安倍首相は12月5日の会見で、月末に行なわれる「ハワイでの会談は、この4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟の強化の意義を世界に発信する機会にしたい」、また、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない、その未来に向けた決意を示したい」と会見で述べた。その時私は、月末の日程に合わせて真珠湾を訪れようと固く心に決めた。安倍、オバマ両首脳が真珠湾を慰霊訪問する際、現地にいて、日本の真珠湾攻撃の結果、「適性外国人」とされた当時のハワイ在住の日本人、日系アメリカ人の人々はどのような反応をするのか、すでに100歳近くになっている真珠湾攻撃を生き延びた米軍の退役軍人たちは今回の慰霊訪問をどのように評価するのか。私はオバマ大統領と安倍首相が真珠湾を訪れる際、その空気を共有したいと強く思った。それは、今後、第二次大戦をめぐる日系アメリカ人の受難について取材を進める上で、とても重要なことだと直感したからである。
しかし、ここで大きな問題となったのは、12月末のハワイは観光地としてのかき入れ時ということだった。エコノミー・クラスの航空券をネットで探すと72万円とか、42万円という数字が出てきた。年末の他の日程をやりくりしての強行取材になるため、26日に東京を出て同日の午前中にホノルルに到着し、27日の夜の便で帰国するといった条件が、ことのほか航空券取得を困難にしていた。滞在先も同じで、クリスマス直後、新年を迎えようというワイキキのホテルは軒並み一泊が300〜400ドルという相場である。普通に考えれば、このような時期に取材に行くのは馬鹿げたことだ。悩みに悩み、非常識であることを承知で無理を言って取材スポンサーを説得しつつ、可否の連絡を待たずに26日深夜発の航空券を取ったのは25日の朝のことだった。帰国日は、慰霊訪問が27日の午前から昼にかけてとの情報を得ていたので、28日の午後にした。行けるかどうかわからなかったので、その時点では取材先も確定していないし、我ながら無鉄砲だとは思った。しかし、日本の大手メディア記者、ジャーナリストの友人たちからは、いっせいに羨ましがられた。私自身、このタイミングで真珠湾を訪れることができることは幸運以外の何ものでもなく、感謝の気持ち一杯で羽田から飛び立つことになった。
- Photo:パールハーバー=ヒッカム合同基地に
はためく星条旗 ⒸAgrospacia
どうしても真珠湾を訪れたいという強い思いを抱いた一つの理由は、長年アメリカ本土や英国、欧州に暮らした私がハワイを訪問したことがまったく無いという、ある種のうしろめたさがあったからかもしれない。ホノルルは高校生の時に、サンフランシスコへ行く経由地として降りたことはあったが、空港の外に出たことはなかった。私の頭の中にあるハワイとは、たしかに日米開戦の発端となった真珠湾という知識はうっすらとあったものの、日本人の大衆的な観光地というイメージが強過ぎて、学生時代から意図的に避けてきたようなところがあった。それがここ数年日系アメリカ人の歴史を調べるうち、ハワイが米西海岸と同等かそれ以上に日系アメリカ人にとって大きな意味を持つことを知り、また、アメリカ合衆国市民としての名誉を守るために米兵として第二次大戦を戦った日系アメリカ人部隊の多くがハワイ出身者であったことから、彼らにとって日本による真珠湾攻撃はどのような意味を持つのか、退役軍人やその家族に直接話しを聞いてみたいと思うようになった。
真珠湾攻撃の日は日曜だった。「いつも日曜の朝は家族でパンケーキを食べるのが習慣になっていた」というハリー・フクハラ大佐の証言を聞けば、当時の日系人たちが、アメリカ人として安定的に豊かな暮らしを営んでいたことが想像できる。また、ハワイ公共放送(HPR)の2016年12月3日に放送されたウェイン・ヨシオカの番組では、歴史家/作家のナネット・ナポレオンの次のような調査内容を紹介している。1941年12月7日の午前、真珠湾攻撃が行なわれた際、1899年設立でハワイ最古の日本語学校、中央学院(Japanese Central Institute)では日曜学校の授業の最中で、生徒児童らは先生のピアノ伴奏で歌を歌っていたという。校舎へは日本軍による直撃は無かったものの、必死で応戦する米軍の対空砲火の爆弾が校庭に着弾し、金属片、爆風で割れた窓ガラスや吹き飛ばされた机、椅子などが子どもたちに降り注ぎ、7歳のナンシー・マサコ・アラカキはすぐに病院に搬送されるも死亡。8歳のヨーイチ・サカイは手首に重症を負い、前腕から切断を余儀なくされた。他にも家に帰った直後、自宅で両親と共に被害にあった子どももいたという。そして、この学校は1941年12月7日をもって閉鎖された。真珠湾攻撃によって、オアフ島では54人の民間人犠牲者が出たとされるが、その中には中央学院の生徒だった日系児童も含まれていたのだ。
- Photo:12月27日、リアルタイムの速報
CNNはオバマ大統領の演説を中継 ⒸAgrospacia
私は、安倍首相が真珠湾を慰霊のために訪れると聞いて、真珠湾攻撃の直接の犠牲者となった日系人、また、日米開戦によって差別を受け、不遇の数年を送ることを余儀なくされ、自分たちの名誉回復のために合衆国軍人として戦わねばならなかった日系アメリカ市民へのねぎらいの言葉が何かあるか・・・と期待したが、「合衆国のために多大な犠牲を払い、みずからの尊厳のために勇敢に戦った日系アメリカ人」について言及したのはオバマ大統領であった。
ホノルルに到着した12月26日は風が強く、窓の外では朝まで風の唸る音が聞こえていた。27日の朝も風は相変わらず強かったが快晴で、37階の滞在先ホテルの自室から見えるアラワイ・ボートハーバーの穏やかな風景を見下ろしながら、私はこの美しい海がホノルル空港を経て、真珠湾へとつながっていること、その海が日米間の苦い歴史へとつながっていることを噛みしめていた。そして、その日の午後、私は生まれて初めてパールハーバー=ヒッカム合同基地の入り口、アリゾナ・メモリアル・プレースに立って、真珠湾を臨んだ。
*オバマ大統領と安倍首相の真珠湾慰霊訪問についての国務省からの発表、ハワイ州知事デイヴィッド・イゲ氏の公式コメント、また、日本人、日系人らが敵性外国人として白眼視されるようになった原因の一つとされる、零戦が不時着したニイハウ島での事件などについて、後日改めて記事を掲載します。
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