2016/12/04 21:09

真珠湾攻撃:日米開戦から75周年を前に思うこと… Vol.2
日系アメリカ人にとっての“with liberty and justice for all”

Photo:第442連隊のモットー”Go for Broke”を刻んだモニュメントはLAのリトル・トーキョーの一角にある ⒸAgrospacia

真珠湾攻撃:日米開戦から75周年を前に思うこと…Vol.2
“Go for Broke”は自由と市民としての権利を脅かされることがあってはならないという教訓

by 岩渕 潤子(いわぶち・じゅんこ)/AGROSPACIA編集長

  アメリカの空港で飛行機を待っていると、「軍関係者、ご家族の皆さまには専用のラウンジ施設がございますので、どうぞご利用下さい」というアナウンスを耳にすることがよくある。迷彩服の若い父親が妻や幼い娘と別れを惜しむ姿はハリウッド映画ではお馴染み(昨今では出征するのが若い母親で、夫が子どもたちと共に見送るケースも)だし、半年から数年に渡る軍務から解放されて帰宅した帰還兵に、飼い主の帰宅を待ちわびていた愛犬が転げ回って喜ぶ動画は数え切れないほどYoutubeにアップされてもいる。
 自衛隊はあっても、いわゆる軍隊のない日本の国民にしてみると、アメリカ社会における「軍人とその家族第一主義」の徹底ぶりには戸惑うことも少なくないが、いつ、どんな時でも戦場に兵士がいることが、今もアメリカという国の現実なのだ。だからこそ、アメリカでは大統領も兵士に敬意を表すし、退役軍人に関係する祝日は重視され、様々な式典が執り行われる。

Photo:式典が始まる前にモニュメントに追悼の花輪が手向けられた ⒸAgrospacia

  そんな重要な国民の祝日の一つがメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)で、毎年5月最後の月曜日に設定され、その週末は三連休となる。メモリアル・デーの起源は、もともとは南北戦争で亡くなった北軍兵士を称えるために始められたそうだが、現在では、第一次世界大戦以後のあらゆる戦争、軍事行動で亡くなったアメリカ合衆国の兵士を追悼し、敬意を表す日とされ、1971年以後は連邦レベルで国民の祝日として定められている。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などの時代は徴兵制だったので、多くのアメリカの家庭は祖父や父親、兄弟、親戚などに戦没者を抱えている。メモリアル・デーは、時期的に「夏の始まり」と重なるので、この週末に家族総出で祖国のために闘って命を落とした先祖のお墓参りをして、その後、ピクニックやバーベキューを行うことは全米の風物詩となっている。また、コミュニティが退役軍人に感謝を表すため、退役軍人であれば誰でも参加できるコンサートや、飲み物や食べ物をふるまうイべントが多数開催される。

Photo:ハワイからやってきた儀仗兵に敬礼
ⒸAgrospacia

 今年(2016年)のメモリアル・デーは5月30日だった。私はLAの全米日系人博物館(Japanese American National Museum)での数日間の取材を終えたら、土曜の夜までにサンフランシスコに移動して、私にとっては単なる連休の週末なので、貴重な自由時間を利用して、のんびり友人たちと過ごそうと考えていた。しかし、到着してすぐに博物館を訪れようと近くを歩いていると、広場をはさんで真向かいに位置する旧・西本願寺の建物の偉容が目に入り、窓や扉に、この建物が日系アメリカ人第442連隊戦闘団の偉業を記念する”Go for Broke National Education Center”として生まれ変わり、新しい展示のオープニングを祝うイベントが28日の土曜日、午前11時から行われるというポスターが目に入った。その時まで、”Go for Broke National Education Center”という組織が存在することを私は知らなかったが、もちろん”Go for Broke”といえば「当って砕けろ」を意味するハワイ独特の言い回し(ピジン・イングリッシュ)で、日系アメリカ人第442連隊戦闘団のモットーであることは知っていた。
 その日の夕方ホテルの部屋に戻った私は、ただちにこの”Go for Broke National Education Center”についてネットで検索した。そして、このセンターのミッションは、米国史上最も多くの勲章を獲得し、米陸軍史の授業でも必修となっているという第二次大戦時の日系人部隊の活躍と合衆国への忠誠、合衆国市民が二度とその市民権を否定されるようなことが起きないよう、民主主義と憲法の遵守を訴える啓蒙的活動を推進することであると知った。28日土曜日のイベントについては、セレモニーの一般向け整理券はすでに受付を終了しており、午後1時過ぎから並べば、展覧会にのみ入場が可能とあったので、すぐに取材を申し込まねばと電話をした。代表番号しかわからず、午後6時少し前だったが、すぐにヴォイス・メールになってしまったので、折り返し電話してくれるように依頼するメッセージを残し、電話を切った。

Photo:ニュース番組のため取材に来ていた地元TV局のクルー ⒸAgrospacia

 その後、全米日系人博物館(JANM)の展示を見学し、展示の解説をするドーセントの日系老人のお話をうかがい、スタッフに取材する合間をぬって、何度もセンターに電話をしたものの、オープニング直前ということもあってか、直接誰とも話をすることができぬまま金曜日の夜になってしまった。そこでやむなく、当日の朝、荷造りをして、空港へ行く車を午後1時30分に予約し、予めホテルをチェックアウトしてから会場に向かうことにした。そこで、なんとか広報担当に交渉しようと考えたのだ。普通はやらないのだが、いわゆる「突撃取材」である。全米日系人博物館のスタッフからは、上院議員や下院議員のほか、ロサンジェルス市関係者、地域コミュニティのリーダー、著名人なども大勢参加するという情報を得ていたので、セキュリティが厳しそうで、そう簡単に取材の許可が出るかどうかはわからなかった。
 ”Go for Broke National Education Center”前の広場にはテントが何張りか設営されており、近くの路上にはCBS系の地元のTV局の中継車がとまっていた。会場準備を手伝うヴォランティアの若者に聞くと、新装なったセンターと展示のオープニングに先だって、第442連隊戦闘団の記念碑の前で追悼式典が行われるということで、その近くに行けば、広報担当者に会えるのではないかと教えてくれた。 
 軍関係者と思われる人たち、式典に出席する退役軍人の家族などで付近はごったがえしていたが、思ったよりセキュリティは厳しくなく、何人かに声をかけると、すぐに広報担当のアグネス・ゴメス=コイズミさんに紹介してもらうことができた。「日系アメリカ人の歴史に関する著書の取材のため、全米日系人博物館を訪れる途中、偶然ポスターを見かけてこのイベントについて知りました。何日もご連絡を差し上げていたのですが、電話ではどなたともコンタクトできなかったので、こうして直接お邪魔した次第です」と説明すると、彼女は私の素性については一切何の質問もせず、「わかりました。センターのCEOにお会いになりますか? 今日は実際に第二次大戦で闘った退役軍人も何名か参加していますが、彼らとお話になりますか?」と聞くので、「もちろん、お願いします」と答えた。「ついてきて下さい」と彼女は先頭に立って足早に歩き始めたので、私はその後を追いかけた。こんなタイミングで、高齢の日系の退役軍人と直接お会いできるなど、滅多にないチャンスである。私はその幸運を無駄にすまいと、いつになく緊張した。

Photo:第100歩兵大隊で闘った合衆国退役軍人
トクジ・ヨシハシ氏 ⒸAgrospacia

 アグネスさんは、明らかに高齢の退役軍人らが座るテントの手前で立ち止まり、「誰がいいかしら?」と呟き、一瞬、私のほうを振り返った。退役軍人には車椅子の人もいれば、耳が遠かったり、あるいは、メディアの前で語ることを躊躇する人もいるのだろう。高齢の退役軍人の方々を目にして、そう感じた私は、「取材に協力して下さる方で・・・どなたが良いと思われますか?」と質問を返した。すると、「トクジがいいかな。彼はどんな場所でも話をすることに慣れているから」と、トクジ・ヨシハシ氏を紹介してくれた。
 91歳のヨシハシさんは穏やかなはっきりした声で、「私はパサデナ(LA近郊)生まれですが、父は埼玉出身、母は秋田の出身です」と語り始めた。「戦争中はどちらの収容所におられたのですか?」と尋ねると「ヒラ・リヴァー(Gila River)に1942年からいました」とのこと。ヒラ・リヴァーはアリゾナ州フェニックスの南50マイル付近のネイティブ・アメリカンの居留地(Gila River Indian Reservation)にあった収容所で、夏の暑さが極めて厳しい一方、冬は極寒となる土地だった。
 米軍兵士として闘うことになった経緯については、最初期の志願兵としてではなく、大学進学のために収容所を離れることが認められるようにもなり、アメリカ生まれの日系人への信頼回復と共に徴兵が再び許されるようになって、「いわゆる合衆国への忠誠をあれこれ尋問されたわけですが、全部『イエス』と答えれば軍隊に採用されるし、答えが全部『ノー』だったり、『イエス』と『ノー』が混ざっていても失格となるわけだけど、私はアメリカ生まれのアメリカ人なのです。当然、自分の国のために闘いたかったし、自分の国はアメリカなのですよ。父の一番上の兄は日本にいて、しかも、陸軍の高官の一人だったのですが、日本のために闘いたいとは思いませんでした」と答え、もう一度、「私の祖国はアメリカです」と念を押すように言った。そして、ヨシハシさんはヒラ・リヴァーの収容所からアメリカ兵として出征し、世に名高い第442連隊の100歩兵大隊の一員として戦った、その生き証人というわけである。
 「日本人は、第二次大戦中の日系アメリカ人のご苦労を知りませんが、その経験についてどんなことを伝えたいですか?」と聞くと、「僕たちはアメリカ生まれのアメリカ人なのに、日本とアメリカが戦争になったら、ルーズヴェルトが大統領令を出して日系アメリカ人は強制移住させられて、市民権を否定されたわけですよね。そんなことはニ度とあってはいけません。今の時代だったらデモ行進するとか、もっと激しく抗議をするでしょう。あるいは、日系人以外の民族グループだったら、いくら大統領令だからといって、おとなしく収容所へ行くなどということはなかったかもしれない。でもね・・・そこが日系アメリカ人なのですよ。そういう扱いを甘んじて受け入れた部分がありました」と、ヨシハシさんは静かに答えた。
 そこで質問を変え、「オバマ大統領の昨日の広島訪問についてのニュースはご覧になりましたか?」と尋ねると、「TVのニュースは見ていないけど、今朝の新聞では写真入りの記事を読みましたよ。広島はね、複雑な思いがありますね。一般市民の女性や子どもたちが犠牲になったこと、戦争で日本兵が多く亡くなったことも本当にいたましいことだと思います。でも、やはり、原爆投下がなければ戦争はもっと長引いたのではないでしょうか。広島の人たちにしてみれば、きっと、やりきれない思いがあるとは思いますが・・・」との答えが返ってきた。これに対して、私は返す言葉を持たなかった。
 もっと時間をかけて、親しくなってからお話をうかがうことができれば、また違った角度から質問することもできただろうが、セレモニーが始まろうという時間だったので、そこでヨシハシさんには謝意を述べ、握手をして、その場を離れた。

Photo:GFBNEC館長/CEOのベレスフォード氏
ⒸAgrospacia

 式典では、地元のTV局ABC-7でニュース・キャスターを務める日系のデイヴィッド・オノ氏が司会進行し、”Go for Broke National Education Center”の館長/CEOのヴィンス・ベレスフォード氏が最初の挨拶に立った。ベレスフォード氏にはセレモニーの開始前に少しお話をうかがったが、陸軍史の授業で必ず教えられる第442連隊の活躍について、それどころか、第二次大戦中の西海岸の日系人の強制収容の史実をアメリカ人の多くはほとんど知らないという。「明らかに私は日系ではありませんが・・・」と前置きをした上で、「当センターは、日系人の第二次大戦中の受難の歴史を伝えるだけでなく、困難な中でも彼らが前向きに生きて、祖国に貢献したことを再確認することで、多くのアメリカ人、特に若い人たちをインスパイアする場でありたいと考えています。そのために今日お披露目するインターアクティブな展示や、上映されるドキュメンタリー、退役軍人たちが語る体験の肉声によるアーカイブは大きな意味を持つもので、多くの人たちの目に触れることを期待しています」と述べた。
 式典が始まると、当然のごとくアメリカ合衆国国歌が地元の高校生らによって歌われ、また、アメリカで小学校から高校までを過ごした人には馴染みがあるであろう「国旗への忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)」が、国歌を合唱した高校生たちの先導で行われた。『スター・トレック』の人気俳優で、みずからも幼い頃に収容所経験のあるジョージ・タケイ氏が出演するミュージカルのタイトルにもなっている”Allegiance”の「忠誠」である。
 その結びの言葉、”with liberty and Justice for all(自由と万民の正義)”を耳にした時、アメリカ市民として生まれ、幼い頃から星条旗に忠誠の誓いを立て、アメリカで自由と平等についての教育を受けた日系アメリカ人二世たちがその祖国に裏切られ、市民権を否定された時の悲しみと悲痛な怒りに思いを馳せると、身体が震える思いがした。そしてまた、憲法で保証されているはずの権利を否定されてもなお祖国を裏切らず、合衆国への忠誠を守って戦った日系アメリカ人兵士らが、今は英雄として讃えられている様子を目の当たりにして、日本人としては複雑な気持ちがなかったわけではないが、いつになく胸が熱くなる思いだった。

* “Go for Broke”のモニュメントには以下の言葉が刻まれている。

Rising to the defense of their country, by the thousands they came – these young Japanese American soldiers from Hawaii, the states, America’s concentration camps – to fight in Europe and the Pacific during World War II. Looked upon with suspicion, set apart and deprived of their constitutional rights, they nevertheless remained steadfast and served with indomitable spirit and uncommon valor, for theirs was a fight to prove loyalty. This legacy will serve as a sobering reminder that never again shall any group be denied liberty and the rights of citizenship.
–Ben H. Tamashiro

祖国を護るため、何千人もが立ち上がった。ハワイ、合衆国本土、全米各地の強制収容所から、若い日系アメリカ人兵たちが第二次大戦中のヨーロッパ、そして太平洋で戦うために出征した。疑いの目を向けられ、社会から切り離され、憲法によって保証されるべき市民としての権利を否定されても、彼らはひるまず、不屈の精神と勇気をもって、祖国への忠誠を示すために闘い抜いた。その功績は、今後、二度と、いかなる集団であっても自由と市民としての権利を脅かされることがあってはならないという教訓として、記憶され続けることだろう。-ベン・H・タマシロ

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