2016/12/02 00:22

真珠湾攻撃:日米開戦から75周年を前に思うこと… Vol.1
日系アメリカ人にとっての“with liberty and justice for all”

Photo:Go for Broke National Education Center/旧・LA西本願寺 ⒸAgrospacia

真珠湾攻撃:日米開戦から75周年を前に思うこと…Vol.1
日系アメリカ人のお爺ちゃんたちが闘った第二次世界大戦

by 岩渕 潤子(いわぶち・じゅんこ)/AGROSPACIA編集長

 今年も間もなく真珠湾攻撃(日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)に続く日米開戦を記憶する日がやってくる。アメリカ合衆国は開戦から75周年の今年を任期満了間近のオバマ大統領で迎えることになるが、年が明けての2月19日は西海岸の日系アメリカ人を内陸の強制収容所に駆り立てたフランクリン・ルーズベルトが署名・発令した大統領令9066号(Executive Order 9066、通称:防衛のための強制移動の権限、1942年2月19日)から75周年で、その時までにはドナルド・トランプ氏が正式に合衆国大統領に就任していることだろう。

Photo:Japanese American National Museum
JANM:全米日系人博物館 ⒸAgrospacia

 大統領選の最中からアフリカ系、メキシコ系をはじめとするスペイン語系、アジア系、LGBTQ、そしてイスラム教徒など、あらゆるマイノリティを対象とした排斥が目立って報道されるようになっていたが、トランプ氏の当選が確定した直後、氏の側近からイスラム系住民の徹底的な管理と監視について、「日系人を対象とした前例がある」という発言が飛び出し、多くの人々が危機意識を募らせている。特に、実際に自身と家族が強制収容所へ送られ、過酷な経験をした『スタートレック』の人気俳優、ジョージ・タケイ氏は人権活動家としても世界的に知られているが、特定の人種グループを危険視しようとすることについて直ちに懸念を表明し、日系アメリカ人と合衆国への忠誠心をテーマにしたタケイ氏出演のブロードウェイ・ミュージカル『Allegiance /忠誠の誓い』を引き合いに、「市民の権利が侵害されるようなことが二度とあってはならない」と、あらゆる機会に訴えている。

 日系アメリカ人の強制収容については、結果的に彼らを襲撃から守ることになった経緯がある(一部のイタリア系、ドイツ系住民も収容されたが、そうでなかった人たちの家や商店が焼き討ちにあった事例が報告されている)ほか、それぞれの収容所の環境が異なること、家族ごとに直面した問題に大きな差があるため、一様な伝え方は誤解を招くことにもなりかねない。しかしながら、少なくても、こうした事実があったことを知らない、戦後移住してきたイスラム系住民や、他のマイノリティの人たちに日系アメリカ人の歴史を知ってもらうことには意味があるだろう。また、トランプ氏当選後、伝統的にリベラルな土地とされる地域でも、長年アメリカで暮らしてきた日本人が白人から侮蔑的な言葉を投げかけられ、身体的な脅威を感じたという報告が寄せられているので、企業やメディアの駐在員、研究機関で働く人たち、留学生など、日本人も、この機会にタケイ氏の話に耳を傾け、日系アメリカ人の歴史を知っておくべきだろう。
 タケイ氏自身もそうだが、収容所を幼少の頃に体験した日系アメリカ人は高齢化しており、その体験について直接話を聞ける人たちは少なくなってきている。また、実際のところ、両親ともに日系人であるという家族も少なくなってきており、2050年頃までには「日系人」という人種グループは消滅して、単に日系の先祖を含む人たちがいるという状況になるのではないかと、取材に訪れたLAの全米日系人博物館(Japanese American National Museum)のリック・ノグチ氏 (Vice President/External Affairs) は予測している。

Photo:ノーマン・ミネタ元・運輸長官と ⒸAgrospacia

 私自身がアメリカで学生生活を送っていた頃、自分はあくまでも「一時滞在者の日本人」であって、日系アメリカ人とは文化的には異なる存在・・・という意識だったため、その頃はまだ、第二次大戦当時の頃のことを覚えているお年寄りが大勢おられたにもかかわらず、しかも、日系人ファミリーにお世話になって共に暮らしていながら、貴重なお話を聞く機会を逸してしまった。また、今にして思うと不幸な結果としか言いようがないのだが、彼らの子どもや孫たちは日本語が必ずしも堪能ではない(孫世代は「外国語」として日本語を履修していたにもかかわらず…)ため、祖父母世代の話がきちんと受け継がれていないというのが現状なのだ。日本語を話し、日本の記憶が残る一世、また、一世の親に育てられた二世たちとは違い、私の世代の三世、四世は生まれた時から英語でアメリカの教育を受け、シリアルやハンバーガーといったアメリカ式の食生活、アメリカ映画やTV番組を見て育っているため、日本文化に郷愁を抱く祖父母世代と孫たちの間では、文化的にも大きな違い…あるいは、断絶がある。
 日本人ではあるけれど、気質的には年が近い三世、四世に共感するアメリカに暮らす現代の日本人としては、第二次大戦中に日本人が経験した苦労について興味を持つことはなかった…というより、学校の勉強や自分のことに忙しく、興味を持つほどの知識を得る機会がなかった。ただし、お世話になっていた家のお爺ちゃんが、よく夏の暑い日に、第二次大戦の開戦前夜、FBIが来て連行され、高さ30センチにもなるほどの自分についての調査報告書(鹿児島で生まれて以来のすべての記録)を見せられ、あれこれ尋問されたことを繰り返して話していたことが記憶に残っていた。このお爺ちゃんは日米開戦当時、両親とUCバークレーの工学部を成績優秀 (Magna Cum Laude)で卒業した弟をすでに日本に帰し、自身もアメリカ生まれの妻子を連れて帰国しようとして、資産を次々と現金化し、当時のお金で数万ドルを日本に送金していたため、FBIはこれを戦争の協力資金の可能性があると見て、お爺ちゃんを拘束・尋問したのだった。
 留置場に入れられて、「ゴキブリの走る音がざざざ、ざざざと聞こえてね」と、笑いながら語るお爺ちゃんに悲壮感はなく、お婆ちゃんも傍らで、ただ黙ってにこにこしながら聞いていたので、私は「へぇ〜」っと驚く以外、どう反応したら良いのかわからなかった。そもそも一般的、かつ、善良な市民であるお爺ちゃんがFBIに連れて行かれるという状況がシュール過ぎて、私の脳裏には、若き日のお爺ちゃんが中折れ帽をかぶった、いわゆるGメンに両腕を捕まえられ、家族の前から連れ去られていくシーンが、いつかどこかで見たハリウッド映画のように、白黒で浮かびあがって、本人や家族がどれほど驚いたかなど、想像もつかなかった。
 お爺ちゃんは「アメリカ政府への忠誠心を試すために、日本の天皇陛下の写真を踏め」と通訳に促された話をして(一世だったので、尋問の際には通訳がついた)、この時は語気を強めて「アメリカ合衆国ともあろうものが、誰であってもそんなバカなことをさせるはずはない。通訳が日本人を侮辱するために勝手にやったことだ」と思って、無視し続けたと語っていた。私はお爺ちゃんの、この無垢な合衆国への信頼がどこから来たのか、少し不思議に思った。きっと彼は日米開戦に至るまで、合衆国は公正であると思えるような生活をしてきたのだろう。しかしながら、最近日系人の歴史について調べるようになった私は、サンノゼの日系人博物館で資料に目を通していた折り、実際に「天皇陛下の写真を踏ませる」という手法が、日本シンパであるか否かの判断の材料に使われていたということを知って驚いた。写真を踏むことを拒んだ人の多くは「戦争協力者」の烙印を押されたらしいのだが、お爺ちゃんの場合は特にそういうことはなかったようで、それは、きっと「アメリカ合衆国ともあろうものが、誰であってもそんなバカなことをさせるはずはない」と頑に信じたお爺ちゃんの忠誠心がFBIの調査官にも伝わったからなのか…本当のところはよくわからない。

Photo:新装オープンしたGo for Broke National Education Centerのオープニング・セレモニー ⒸAgrospacia

 元気だったうちに色々聞いておけば良かったとつくづく思うのだが、先に日本に帰国した弟はUCバークレーを卒業した優秀なエンジニアであったにもかかわらず、すぐに陸軍に招集され、フィリピンのどこかで戦死しており、お爺ちゃんは亡くなるまでそのことで強い自責の念があったのではないかと、今にしてみれば思う。日本に帰さなければ、たとえ日系人強制収容所に入れられたにしても、無事に生きながらえることができたのではないか。もし、志願兵として米軍側で戦っていれば、戦後はヒーローとしてアメリカ人から讃えられる存在になっていたはずだった。自慢の弟が日本軍兵士として無駄に命を落とす結果となったことがお爺ちゃんには耐えられなかったらしく、自分と家族が強制収容所に送られたことについて一言も不満を漏らしたことはなかったものの、日本政府について語る時はいつも憤懣やるかたない様子だった。その怒りは相当なもので、広島や長崎への原爆投下の話になるたび、「あれで良かったんじゃ。もし、あの戦争で日本が勝ってでもいたら、どんなに恐ろしい世界になっていたか…考えてもみなさい」と、一切の躊躇なく言うので、私はその都度、言葉に詰まった。アメリカにおいて原爆投下を正当化する話は聞いたことがあったものの、少なくても日本生まれのお爺ちゃんが広島や長崎への原爆投下を全面的に肯定することが、日本人としての私にはとても信じ難かった。ただし、それは、彼の日本政府への強い否定的感情と、弟を殺されたことへの恨みの表れだったのだと今は理解できるので、非難するつもりはない。日系アメリカ人でも広島や長崎出身の先祖を持つ方たちは、当然、異なる反応をすることだろう。それでも、「日本語を学ぶために日本に留学中、広島に原爆が投下され、広島市郊外に滞在していた」といった人の中には、いつまでも戦争をやめなかった日本政府を批判する人もいる。

Photo:JANM:全米日系人博物館前の広場 ⒸAgrospacia

 今年(2016年)5月28日…オバマ大統領が広島を訪問した翌日から、米国はメモリアル・デーの連休ということもあって、各地で退役軍人を追悼し、その功績を讃える催しが行われていた。日系人の歴史について、体系的に調査したいと考えるようになった私は、最初の手がかりを求めて全米日系人博物館のあるLAに滞在していた。その日は午前11時から、博物館から道一本隔てた場所に位置する旧・西本願寺の建物が日系アメリカ人第442連隊戦闘団を記念する”Go for Broke National Education Center”として生まれ変わり、新しい展示のオープニングを祝うイヴェントが行われていた。
 第442連隊戦闘団といえば米国史上最も多くの勲章を獲得し、米陸軍史の授業で必修となっているほどで、式典には高齢の日系退役軍人らが招待されていた。この式典には、自身も元米軍の陸軍将校で、ブッシュ政権下の米同時多発テロの際、運輸長官の職にあって、アメリカ史上初めて全民間航空機の緊急着陸を命令したノーマン・ミネタ元・運輸長官が出席していた。長年の民主党員で、サンノゼ市議会議員、サンノゼ市長、合衆国下院議員を歴任したミネタ氏は今も多くの人たちの人気者で、式典の後はセルフィーを撮ろうとする人たちに囲まれていたが、日本人としては聞かずにいられない衝動にかられて「オバマ大統領の昨日の広島訪問をどう思われましたか?」と尋ねてみた。彼は静かに ”I’m pleased(満足しています)” とニ度繰り返してから、「いつかは現職の大統領に広島へ行ってもらいたいと思ってはいた。ただ、それは周りがとやかく言うべきことではない。過去に起きたことへの謝罪ということではなく、未来へ向けての前向きなメッセージであって欲しいと願っていたので、彼はよくやったと思う」と答えた。続けて「シンゾー・アベは真珠湾を訪れるべきでしょうか?」と尋ねると、「それもまた彼自身が決めるべきことでしょう」との答えが返ってきた。

Photo:全米日系人博物館には地元の学校からの見学グループが毎日訪れている ⒸAgrospacia

 この時、近くには、ミネタ氏の後を担う若手の日系下院議員で、アジア系では初めてゲイであるとカムアウトしたことで話題となった民主党のマーク・タカノ氏もいたが、彼には原爆投下の際、広島近郊に滞在していた親戚がいる。タカノ氏は、オバマ大統領の広島訪問を熱心に訴えた一人だ。ミネタ氏は84歳。上品で頼りがいのあるお爺ちゃんといった印象で、「君、アメリカ生まれでしょう? 違うの? ボク、日本語ぜんぜんダメ。親戚に笑われるの」と気さくに語りかけてくれた。ご両親が静岡県三島の出身とのことだったので、浜松の大学で教えていた経験があること、また、学生時代から日系人家庭で面倒を見てもらって、今も大変お世話になっていることから日系アメリカ人の歴史に興味を持ったことを話すと、「そうなの?」と顔をパッと輝かせて、嬉しそうな笑顔になった。
 その日、私はサンフランシスコへ移動しなければならず、そのまま空港へと向かわねばならなかったので、残念ながら話を打ち切らねばならなかった。聞きたいことがあったらいつでも連絡しないさいと名刺を下さったので、お元気なうちに何回かにわけて、じっくりお話を聞かねばと思った。

※日系アメリカ人についてのリサーチ・プロジェクトは2016年、匿名による取材費のご寄付によってスタートしました。今後、全米各地への取材を継続してゆくため、さらなる取材費が必要となります。特定テーマや人物についての調査をご希望の方は、info@agrospacia.comまでご相談下さい。また、プロジェクトを応援して下さる方は下記の銀行口座まで、ご寄付をよろしくお願い致します。合衆国にお住いでドルでの寄付を希望される場合は、別途、ドル建の口座をご案内致しますのでお問い合わせ下さい。このプロジェクトに特定した広告も歓迎します!

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