2015/12/25 15:00

あれから4年・・・
ペンタトニックスのメンバーとなったオルショラくんとの再会

Photo: 2012年デビュー前のオルショラくん。ワークショップで日本の子供たちと ⒸJunko Iwabuchi

あれから4年・・・ペンタトニックスのメンバーとなったケヴィン・オルショラくんとの再会

by 岩渕 潤子(いわぶち・じゅんこ)/AGROSPACIA編集長

 2015年11月中旬、人気アカペラ・グループ、ペンタトニックスが新アルバムのプロモーションで1週間ほど来日していた。この間、朝や昼の情報番組に多数登場し、FMラジオやショッピング・モールでのファン・イヴェントなど、凄まじい露出ぶりだったので、彼らの姿をどこかで目にしたという人は少なくないだろう。2012年夏のメジャー・デビュー、2013年の全米ツアー、そして、2014年はアジア・オセアニア地域を含む世界ツアーで、日本では真夏のサマーソニックに出演してその存在感を示し、ペンタトニックスは人気グループとして不動の地位を確立した。

Photo:2012年のワークショップでチェロを弾く少年、通訳さんと ⒸJunko Iwabuchi

 デビュー以来ペンタトニックスの動向については絶えず注意を払ってきたのだが、今年6月の来日の折りは、ちょうど入れ違いで私自身が日本を留守にしており、その後はシカゴの若い映像作家を東京に呼ぶプロジェクトのためにクラウドファンディングを行うなど、資金集めで忙殺され、また、秋はイヴェント続きだったので10月25日にペンタトニックスが新アルバムをリリースしたことに気づかずじまいでいた。ところが、ペンタトニックスの結成以前からの知り合いである、メンバーのケヴィン・オルショラくんから、11月11日に「18日まで東京滞在予定です。今、国内だったらどこかでお会いできませんか? ご飯、食べましょう!」というメッセージが入ったので、「もちろん! いつなら大丈夫そうか仕事のスケジュールがはっきりしたら、また連絡ちょうだい」とメッセージを返して、それから慌ててペンタトニックスの新アルバムに関する情報を検索し、『ローリング・ストーン誌』のレヴューなどに目を通した。
 彼らはカバー曲の独創的なアレンジで有名だが、今回は、デビュー後初となる全曲オリジナル曲によるアルバムだという。しかも、発売直後からビルボードで1位を記録し、アカペラのグループでは史上初の快挙とのことだった。今年の春、編曲部門でグラミー賞を受賞した時にもびっくりしたが、昨年の夏、川崎駅に隣接したショッピング・モール、ラゾーナでのファン・イヴェントには5000人を動員、そして、今年11月14日に土砂降りの雨の中行われた同一会場でのイヴェントでは8000人を動員したということで、これらの数字にはただただ驚くばかりだった。

 そもそもビートボックスと様々な楽器の天才であるオルショラくんと出会ったのは、ペンタトニックスが結成される前・・・まだ彼がイェール大学を卒業する直前の2011年のゴールデン・ウィークのことだった。寮の自室で、ビートボックスでパーカッションのパートを口ずさみながら、同時にチェロを見事に弾きこなすパフォーマンスを偶然Youtubeで見かけ、強く印象に残ったのだった。当時、日本は東日本大震災から、まだ、間もない時期で、オルショラくんの力強いチェロとビートボックスは心に強い力と勇気を与えてくれるように感じて、ぜひ彼を日本に招請して、被災した地域の音楽を勉強している子供たちを励ますようなイヴェントが企画できないものか・・・と考えるようになった。

 卒業式直前の時期だったので、その頃、イェール大で教えていた知人に大慌てで連絡を取り、この類い稀な音楽の才能を持つ青年のメールアドレスを教えてもらい、まずは彼を日本に招請するため、「アーティスト・イン・レジデンス」と実験的な音楽祭での発表に応募してもらうことにした。頭は良いし、経歴、事前に送ってもらった演奏のDVDなどもすべて高い評価で、スカイプによる面接も順調で、私が希望した通り、彼は翌2012年の1月に3週間の予定で来日することが決まった…のだが、ちょうど、このやり取りをしている最中に、彼はペンタトニックスの他の4人のメンバーから声をかけられ、『シング・オフ』というオーディション番組に出演するようになっていた。

 当初は「すぐに敗退するから、そしたら日本に行けるから、きっと大丈夫」とオルショラくんは笑って言っていたのだが、あれよ、あれよという間にセミ・ファイナルにまで勝ち残り、結果はグランプリ。優勝賞金とEPIC/SONYとのレコーディング契約を勝ち取ったのだった。これが2011年、クリスマス直前のことだったので、それからすぐにレコーディングが始まり、「すみませんが1月のイヴェントの時期に東京に行くことができなくなってしまいました」という話になって、こちらも「残念ではあるけど、めったにないおめでたい話だから…」ということで、関係者に説明したり、お詫びしたりして、事態の収拾を図ることとなった。しかしながら、オルショラくんは一家揃って敬虔なクリスチャンで、ハイチの大地震後の資金集めキャンペーンの映像に無償で楽曲を提供するなど、ヴォランティア活動にも積極的だった。そのため、ペンタトニックスのメンバーとしてレコーディングを優先させなければならないけれど、日本に来て、少しでも役に立ちたいということをずっと言い続けてくれていた。
 そして、2012年4月に入った頃、オルショラくんから「レコーディングが終わりました。7月上旬だったら日本に行けるかも知れません」という連絡が来た。そこで私は他の出張の合間にLAで彼と会う予定を入れて、初めて直接、顔を見て話をすることになった。会ってみるとオルショラくんは頭脳明晰なだけでなく、礼儀正しく、予想した通りか、それ以上にめちゃくちゃいい子だった。

 彼を招請するに当たって、アメリカ大使館から助成金を出してもらうことが決まっていたので、独立記念日の7月4日に東京でコンサートを…という話がまとまった。そこでまた驚かされたのは、なんと彼は米・音楽界の大御所、クインシー・ジョーンズからスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに招待されており、7月1日、2日とハーヴィー・ハンコックやチック・コリアと共演することになっているというのだった。「あれ? 言ってませんでしたっけ」と、オルショラくんは私にたずねるので、「聞いてないってば!」と返答したのだが、問題はアメリカ大使館の助成金だと旅費が日〜米の都市往復しか出ないということだった。しかも、チェロを機内に持ち込むと2人ぶんの旅費となってしまう。すると彼は、「クインシーや彼のスタッフと来週、一緒に夕食の予定があるので、その時に聞いてみます。ジュネーヴから東京のぶんは、どっちみち帰国する航空券は出してくれると言っていたから、アレンジしてくれるんじゃないかな」と、こともなげに言ったのだった。その時、私は「どうだろう?」と半信半疑だったのだが、実際、その翌週になると、「クインシーが東京までの航空券は手配してくれるそうです」というメールがオルショラくんから届いた。そこで、私は、今までのシンポジウムやイヴェントでは経験のないことだが、オルショラくんを迎えてのコンサートの挨拶の冒頭で、クインシー・ジョーンズ氏に対して謝辞を述べることとなった。我々主催者は、東京からLAまでの航空券のみを手配すれば良いこととなり、ほっと肩をなでおろすことができた。

 2012年7月3日の朝、オルショラくんはジュネーヴから東京に到着し、ホテルにチェックインするやいなや、すぐにお寿司屋さんで海鮮丼を食べ、六本木ミッドタウンのコンサート会場にサウンド・チェックにと赴いた。会場は21_21 DESIGN SIGHTで、三宅一生さんとそのスタッフの皆さんが、日頃のファッションショーで一緒に仕事をされている照明や音響の優れたクリエーターを紹介して下さり、7月4日のイヴェント当日、オルショラくんとのトークのお相手にはピーター・バラカンさん。通訳は米国大使館の好意でNHKの同時通訳のスタッフを配置して頂いた。ほんとに多くの人たちとの素晴らしい出会いに恵まれて、ニコ生でも配信されたコンサートは大盛況のうちに終了した。

 結局、オルショラくんの滞在は、到着した日を入れてわずか3泊だったので、福島の子供たちを励ますためのコンサートはできなかったのだが、何か楽器を習っている子供たちと保護者の方たちを集めて、ちょっとしたワークショップとカジュアルな演奏の夕べを開催した。この短期間の日本滞在中、ペンタトニックスとしての初EPがリリースされ、ビルボードの初出が14位という好スタートだというメッセージがマネージャーさんから入ったので、移動中のタクシーの中で「いつかグラミー賞を取ったら、その時はよんでよね」と冗談で言ったのだが、それが早くも今年の春、現実のものとなったことは感慨深かった。

 ペンタトニックスはメンバー全員がSNSを駆使して同世代の支持層を拡大し、米TVの有名トーク・ショーの人気ゲストとして、四六時中登場。昨年、2014年には日本のサマーソニックにも出演するまでとなった。義理堅いオルショラくんは日本でのコンサートに私を招待してくれるが、ちょっとバックステージに入った一瞬で「握手会の後、ご飯食べに行けますか?」といったメッセージを送ってくるので、熱烈なファンに囲まれて、ちょっと申し訳なく思いながらも不思議な気分になる。

 11月の来日時、ペンタトニックスは「毎日、朝6時から夜8時ぐらいまでTV局回りで、めいっぱい仕事だった」とのことだったけれど、最後の日の収録がお昼すぎに終わる予定で、「夜の飛行機に乗るまで自由行動になったから会えません?」と帰国日の朝6時半頃にメッセージが入った。ちょうどその日は、青山BBラボで日本語の吹き替えに取り組んでいるシカゴの映像作家のアニメ作品の音声収録予定だったので、「じゃ〜、学校に来る?」と誘った。すると、オルショラくんは「おもしろそう! お邪魔じゃなければ、ぜひ!」と言ってきたので、収録メンバーと学生に「タイミングが合ったら、ケヴィン・オルショラくんを連れていきます」とメール入れておいて、近くのスタバで落ち合ってから、ふらっと大学のプロジェクト・ルームに連れていった。

 ペンタトニックス全員が揃っていれば騒ぎにもなっただろうけど、オルショラくん一人で、場所も表参道だったので、あまり目立たず・・・スタバのドア近くに座っている彼を、私はすぐ見つけることができたのだが、ほとんど「留学生?」という感じだった。

 ふだんでも時々、メールで近況を知らせ合ったりしているし、時々会うこともあるので、あれこれ話しながらスタバから大学施設へと案内し・・・学生たちは「将来、どんな仕事したいの?」などと、オルショラくんから質問されることになり、なかなか貴重な経験ができたのではないかと思う。それから近所の焼き肉屋に大勢でご飯を食べに出かけたが、そこでもオルショラくんは「留学生?」みたいな雰囲気でみんなの間に収まって、無駄な注目を集めずに済んで良かった。

 あれから4年・・・。東日本大震災の年から4年が過ぎて、Youtubeで見かけたイェール大の学生は、アメリカの若者なら誰もが知るペンタトニックスというバンドのメンバーとなり、グラミー賞も取った。次はソロ・アーティストとしてのグラミー賞を目ざして欲しいと思う。ちなみにオルショラくんのお父さんは精神科医で、長男の彼にも医師になって欲しいと考えていたようだが、今はミュージシャンとしてのキャリアを認め、応援している。あれだけの才能を・・・認めない人はいないだろう。これからも沢山素晴らしい曲を書いて、編曲して、世界中の人たちを幸せにして欲しい。そして、彼自身にも幸せになってもらいたいと思う。