アイザック・マーケティング株式会社
代表取締役社長
畠山 正己(Masami Hatakeyama)
1979年、大手広告代理店㈱大広に入社。関東および東北の大手食品メーカーや通信業界の広告・マーケティングサポートに従事。その後、1989年にIBMグループの戦略情報システム導入支援を通じデータの世界へ。
1990年、アイザック・マーケティングの前身となる㈱ヒズコミュニケーションを設立。オペレーションズ・リサーチの概念を元に、クライアントの意思決定や戦略策定のためのシステム導入支援、またそれらを利用したサービスの提供を開始する。
1997年、より消費者インサイトを追求するため分社化し、アイザック・マーケティングを設立。
2009年、アイザックグループのグローバル化を推進するため、中国上海に活動拠点を移し、日系企業のマーケティング支援を行う。
第2回 アイザック・マーケティング株式会社
畠山正己代表取締役に聞く〜データ分析との出会いと変遷
第2回 アイザック・マーケティング株式会社
畠山正己代表取締役に聞く〜データ分析との出会いと変遷
昨今大量のデータを分析して市場開拓などに活かす「ビッグデータ」への関心から、そのバッググラウンドとなる統計学を「ビジネスに活かしたい」と考えるビジネスパーソンが増えています。今でこそデータの活用は当たり前のように叫ばれていますが、その実態をわかっている人は多くはありません。そこで、90年代よりデータや社内に蓄積されたデータに着目し、クライアントのビジネスインテリジェンスをサポートしてきたアイザック・マーケティング株式会社の代表取締役 畠山正己氏が「データ分析の変遷」について6回連載で語ります。今回は連載2回目です。
■IBM最大の危機で、独立の道へ
衝撃のCOMDEXから一年半後、私は友人と一緒に独立することを決めました。というのも、当時“IBM最大の危機”と呼ばれた時代が到来。マイクロプロセッサーの進歩により、いわゆる“オフコン、マイコン、ミニコン”とよばれる対面式コンピューターの出現やマイクロソフトの基本OSがでてきたタイミングでした。競合のメーカーは新しい波に乗っているなか、メインフレームコンピュータに全面的に依存するIBMだけがダウンサイジングの波に飲み込まれていった感がありました。そんなIBMの冬の時代、私が所属していた事業もグループとしては撤退するしかなかったのです。しかし、私自身はこのデータ分析という分野にとてつもない可能性を感じていたので独立し、この事業を続けていくことを決めたのです。
そんなこんなでアイザックグループの前身となる㈱ヒズコミュニケーションズはスタートしました。何もわからない自分にとって会社の設立準備も楽しいもので、マンションの一室を借り、お金もなかったのでオフィス家具はDIY。にもかかわらず唯一の武器である、汎用機“IBM 9370”の導入を決定、着々と準備を進めていました。
当時の汎用機は、搬入するのも一苦労。コンピューターディスクが入っており、傾けたりすることもできないので、道路封鎖をし大型クレーンを使って部屋の窓から入れました。それに、汎用機の設定も素人ができる時代ではないし、IBMにはとても高くて頼めない。エンジニアの友人が仕事を終えてから21:00から明け方まで2週間手伝ってくれ、なんとか分析環境を整える事ができました。
■初めてのピポッドテーブル!
今でこそエクセルの機能である“ピポッドテーブル”を当たり前に皆さん知っていたり、使っていたりすると思いますが、当時は集計も一苦労。当時を代表する表計算ソフト“Multiplan”や“Lotus1-2-3”では集計すらできなかったのです。汎用機でプログラムを組み集計。それをアウトプット用に整形するために5インチのフロッピーディスクにコピーします。それをまた “Lotus1-2-3”で読み込み、列幅・行間を整え、罫線を引いて完成です。今考えてみるとなんともめんどくさいことをやっていました。
そんなある時、マイクロソフが“ピポッドテーブル”いう機能を世に送り出します。今の若い方は信じられないかもしれませんが、表計算しかできないのが表計算ソフトと思っていたので、表計算と集計がひとつのソフトでできるなんてなんと画期的な事かと衝撃が走りました。このピポッドテーブルの出現により、“Multiplan”や“Lotus1-2-3”は市場から淘汰され、市場から姿を消しました。
■アイザックグループ倒産の危機!?
当時の私達が売り物にしていたのは、数字を分析し可視化する作業。いざ会社を作ってみると、そんな重要な会社のデータを簡単にベンチャー企業に託すわけもなく、仕事がとれていたのはIBMの看板という存在がいかに大きかったかと言う事実を思い知らせされました。そのため否応なしに自らデータを収集せざる負えず、当時クライアントから要望の多かった、市場調査と言う新しい事業分野を加え、なんとか持ちこたえていました。
このソリューションは市場に受け入れられる!という絶対的な自信と、最新のテクノロジーを持っていればすぐにお金になる!と思っていましたが、そんなに世の中甘くもなく、バブル崩壊後にも関わらずバブルの気分が抜けない私と友人は、あっという間に準備していた資本金を食いつぶし、赤字は約7000万円まで膨れ上がりました。そんなどうしよう!どうしようと右往左往していた矢先、ある一本の電話で転機が訪れたのです。
(続く)