第3回 岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀 『ヴァティカンの正体』刊行記念トーク・イベント
第3回 岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀『ヴァティカンの正体』刊行記念トーク・イベント
3月1日に『アグロスパシア』で公開した「岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀 『ヴァティカンの正体』刊行記念トークライブ速報」に続いて、その内容を3回にわけて紹介するシリーズ。今回は第三回、会場でやり取りされた質疑応答です。
一般的にヴァティカンというと宗教やアートのイメージが強いですが、本書ではヴァティカンを「究極のグローバル・メディア」と位置付けていることから、今回のトークイベントではグローバル企業Google日本法人、元・代表取締役の村上憲郎氏、ジャーナリストの津田大介氏をゲストにお迎えして、『関西ウォーカー』編集長の玉置泰紀氏の司会によって進行されました。著者は本ウェブ媒体AGROSPACIAの編集長で青山学院大学の客員教授でもある岩渕潤子。会場は下北沢のビールが飲める書店、B&B(Book&Beer)で、この四名による豪華な顔ぶれでのトークイベントとなりました。
■質疑応答
質問:一神教と多神教のものの考え方の違いが根本にあると思うのですが、一神教の場合真理というものがあって、考えれば考えるほど真理は到達できる。到達できるからこそ汎用性があって、みんなに伝えることができる。しかし日本では基本は仏教で、しかも、一方では多神教なので、調べれば調べるほどパーソナルなものになって汎用性がない。アートやパブリックの概念についても、宗教観の違いなどの根本的な部分からして違うのかと思うのですが、日本発の価値観が世界に広がらないのは、その価値観の中に汎用性がないから文章化できず、例えば巧みの技のように複雑化はできるけど、可視化して人に伝えることができないので、そこに問題があるのかなと思ったのですが?
「擬似一神教ということで国家神道がつくられたのかなというのを感じる」と、玉置氏。もともと神道と仏教において、格式高い神社になればなるほど「対」になるお寺もちゃんとあって、それはまさに多神教の最たるものだった。しかし明治国家をつくるときに一神教の方が統治しやすかろうと廃仏毀釈をやったことなどもあったのではないかと、続けた。
一神教には恣意的に統一された概念という部分があると思う。ユビキタスという言葉が日本でテクノロジーにからめて使われ始めた際、「八百万の神のようなもの」だと説明した工学博士がいた。しかし、ユビキタスの意味は、いろいろなものに違った神が宿っているという「八百万」の喩えとは違って、いろいろなものの中に同じ概念が、広く、あまねく存在するという意味が正しい理解。一神教国家における価値は絶対基準に基づいていて、判断基準はそれに従うのみだが、日本の場合、良くも悪くも判断基準そのものが変わってOKというころがあるのではないかと、岩渕氏は話した。
原始仏教は宗教というガテゴリーにおさまらず、哲学として読むことができる。キリスト教や一神教における神について、プロテスタントでは考え尽くそうとしているが、カトリックではマリア信仰などのヨーロッパにおける土俗信仰あり、皆さんが最近はしゃいでいるハロウィンも元々は土俗信仰であるから、一神教Vs.多神教というふうに簡単にわけられるものではないのでは…と、村上氏からはコメントがあった。
質問:優れた人への投資というお話で“優れた”というのは立場によって定義が異なると思うのですが、今回の優れたという定義はどういう状況化において優れたとするのでしょうか?
ポジションによって最適である人は変わってくると思いますが、投資をする対象の人のどこを見ているのかというと、資質レベルでしかみていない。条件はあまり関係ないのではないか。アメリカ(カリフォルニア)の大学、大学院などでの奨学金対象者の選考プロセスを見ていると、願書の名前や出身地、性別や年齢を審査する側にわからないよう、個人情報部分を黒く塗りつぶしていて、公平性を心がけているんだなぁと思った。一方、日本の場合は、なるべく成功率の高い人にお金をあげて元を取ろうといった傾向が強く、しかも、奨学金を与える対象者の人数も少ないように見える。アメリカの場合は資質があると思う人には、広く、あまねく、お金を与える余裕と懐の深さがあるように見えて、優秀なら奨学金を貰って当たり前といったところだ。ポジションが人をつくるような面もあり、自分は奨学金をもらって人に期待されているという自覚を持たせること、また、奨学金をもらった若者同士で競わせ続け、そのグループの中からリーダーが生まれるような切瑳琢磨の仕組みも良くできている。個人に奨学金などを与えた後、どう育てるかというプロセス管理がアメリカは上手であると、岩渕氏は述べた。
村上氏は、入学の選考プロセスと、いわゆるビジネスに投資するというプロセスはまるでロジックが違う。投資というのは私利私欲…だと言う。ただ、アメリカが日本と違うとしたら、100社に投資して99社潰れても、1社への投資が1000倍になって戻ってくればいいという考え方をアメリカではする。すでに投資したお金がうまく何サイクルか回った実績があるから、そのような大胆なことがますますできるようになっているのがシリコンバレーの現状。一方、経験の浅い日本のベンチャーキャピタルでは、100社に投資したらどれも成果を出さなければならないと計算するから、明らかに判断が違ってくる。
投資というのはお金を出してくれる人に対してリターンをどのぐらいで返すか、に尽きる。それが最終的に自制的秩序を生むという信念に基づいて仕事をしているのだ。
アメリカはフェアだと言い続けているが、入学では必ずしもそうではない。名門校では各タウンごとの入学者数の枠は決まっていて、どうやってその枠に押し込んでいくか、同窓会は競いあっていて、入学試験がないこともあるという意味合いにおいてはアンフェアもいいところ。先ほど入学願書の名前を消しているとあったが、寄付をしている人のファミリー・メンバーかどうかの記入欄があり、それにチェックがあれば入れてしまう。従って、話はそれほどシンプルではないと、締めくくった。
質問:負けっぱなし日本への処方箋として教育について聞きたかった・・・
どう教育を立て直すかという点においては、師範学校を復活させるしかないと思う。師範学校というのは学費がタダで、お金のない優秀な子が行くための学校であった。第二次世界大戦のようなとんでもない間違いをしでかしてしまう人たちは陸軍士官学校、陸軍大学から出ていて、その陸大の首席の人が決断した戦争で大敗を喫したわけです。いつまでも戦争を終わらせないせいでかなりの人が病死・餓死した。自分たちで問題解決ができなかったわけで、陸師、陸大の教育の中にすっぽりと欠如したものがあったのではないかと思う。話はそんなにシンプルではないだろうが、日本は明治維新以降を事実ベースで検証するという膨大な作業を怠ってきて結果として、今どうしたらいいのかわからなくなっている。そこを考えなければこの国は再建できないと思うと、村上氏は語った。
最後の質問として、「twitterを流行らせた張本人である津田さんから見て、「アラブの春」でアラブの青年たちが一生懸命SNSを駆使して運動が盛り上がったことについてどんな感想をお持ちでしょうか?」と、村上氏。
この『ヴァティカンの正体』にもつながると思うのだが、革命を起こそうとしたのはリベラルな大学生だった。先に結論を言ってしまうと、ネットは壊すことはできるが、つくることはできないということでもあると思う。壊すことができた後、リベラルで民主的な新しい大統領がなぜ出てこなかったのかというと、その理由はメディアにある。宗教が根付いているから結局みんな教会(モスク)には行く。そこで結局は最強のメディアであるリアルな場をもっていたムスリム同胞団がおいしいところを全て持っていってしまった。震災後、アラブの春に関わった人に話を聞く機会があったが、ネットがなければあそこまでできなかった。結果的には上手くいかなかったけれど、次はもっと上手くできるかもしれないと話していて、一つの希望だと思ったと、津田氏は語った。
歴史を振り返ると、ヴァティカンは学術的なバックグラウンドがしっかりした知識人たちがコントロールしたかたちで、教会というリアルの箱をメディアとして使っていた。今の時代、誰もがメディアにアクセスできるようになって、お金も教養もない組織が廉価なメディア、たとえばYutubeを使って自爆テロの候補者を募るようになっている。これは仕方のないことだと思う一方、メディアの使われ方はどんどんこういう方向へ向かっていくのかもしれないと、岩渕氏は懸念する。
そういう社会状況の中、我々はどうメディアの変化に対処していくのかが求められているわけで、この本を読むと、ヴァティカンはそういう状況にも順応して変わっていくのだろう、果たして一方の日本はどうなのだろうと考えさせられた…と、津田氏。
最後に、「ヴァティカンの凄いところは、時代にどう対処していくかを絶えず考えつつ、お金はきちんと集め、今まで蓄積した美術品や財宝を散逸させず、更に生き残っていこうとするところがしたたかで尊敬に値する」と、岩渕氏は締めくくった。
ここから分科会がいくつもできそうな盛り沢山の内容で、時間に限りがあることをみなが惜しみつつ、豪華なゲストを迎えての『ヴァティカンの正体』についてのトークイベントは、定刻をかなり過ぎて終了した。
(了)