2014/03/31 12:00

第1回 岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀 『ヴァティカンの正体』刊行記念トーク・イベント

豪華な顔ぶれでのトークイベント Ⓒ Konomi Kageyama

第1回 岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀 『ヴァティカンの正体』刊行記念トーク・イベント

by 書き起こし/文責:石川亜里紗(いしかわ・ありさ)

 3月1日に『アグロスパシア』で公開した「岩渕潤子×村上憲郎×津田大介×玉置泰紀 『ヴァティカンの正体』刊行記念トークライブ速報」に続いて、その内容を3回にわけて少し詳しく紹介します。

 一般的にヴァティカンというと宗教やアートのイメージが強いですが、本書ではヴァティカンを「究極のグローバル・メディア」と位置付けていることから、今回のトークイベントではグローバル企業Google日本法人、元・代表取締役の村上憲郎氏、ジャーナリストの津田大介氏をゲストにお迎えして、『関西ウォーカー』編集長の玉置泰紀氏の司会によって進行されました。著者は本ウェブ媒体AGROSPACIAの編集長で青山学院大学の客員教授でもある岩渕潤子氏。会場は下北沢のビールが飲める書店、B&B(Book&Beer)で、この4名による豪華な顔ぶれでのトークイベントとなりました。

■それぞれの本の印象

 本書には前書きがなく、密度の濃い序章からはじまるという、一風変わった構成だが、岩渕氏によれば、前書きを書いているつもりだったのがだんだん長くなり、結果的に序章になったとのこと。岩渕氏は「結論を先に言ってしまうタイプ」だと自ら話し、「こういう本にする」と予め決めてから目次案に従ってそのとおりに執筆していくので、書き始めてから最終的なゲラになるまで加筆や訂正はほとんどない。ただし、一つのテーマを多角的視点で独自の解釈を加えていくので、そういう意味では、話が二点三点しているように感じて、戸惑う読者も少なくないようだ。

 津田大介氏は『ヴァティカンの正体』を読んで、ヴァティカンを考えることがこんなに現代的行為なのかと驚かされたと言い、岩渕氏本来のバックグランドに加え、様々なデータに基づく分析もされ、それらがバランス良く配置されていて、そこから読み解ける事実があり、後半に行くほど良い意味での暴走もあって、本としてとても楽しめたので、付箋を貼りまくることになったと述べた。

 村上憲郎氏も同様に、気になったページの端を折っていたら本の3分の2ぐらいの全ページを折っている状態になったという。事実をベースとして、その上で付加価値を加えていくことが文章を書く上で重要なことだと話す村上氏も、本書は「へえ」マークが全ページにつくほど興味深い本だったと述べた。

■アップルの宗教性について

 本書で語られているアップルの宗教性だが、もともと「アップルが宗教的であること」についてはどこかで書きたいという気持ちがずっとあり、スティーブ・ジョブスが亡くなってからは「こういう文脈で書こう」と気持が固まったものの、宗教としてのアップルについて書く適当な媒体が見つからず、書き下ろしの本書でやっと書くことができたと岩渕氏は話す。

 大学生になって初めて出会ったコンピュータがMacだったということもあり、岩渕氏は今もMacファンなのだが、Macに不具合問題が続出していた時代を含め、現在に至るまでMacを選び続けた理由について、「初めてのコンピュータであったMacは忘れられない初恋の人のようなもの」だという。そして、Youtubeなどで見ることのできるMacのプレス・イベントなどでの若き日のスティーブ・ジョブスはロックスターのようで、今改めて見てもつくづくかっこいいと熱っぽく語った。

 ジョブスのカリスマ性やアップル・ユーザーが共有している宗教的な一体感に比べると、現在のカトリック教会においては、教皇が圧倒的なカリスマということではないかもしれない。興味深いのは、アップルはジョブス亡き後も信者(ユーザー)を失わずにいることで、キリスト教と比較するなら、現在のアップルは、キリスト亡き後に使徒たちが話法、言説、教義を整備していく過程に相当するのではないか。各国の歴史や文化によって微妙な違いを内包しているカトリックも、ラテン語という標準化された共通のプラットフォームを持っていることが、組織としては、一人一人の信仰よりも大きな意味を持つのではないだろうかと玉置氏は語る。

■言語と東方正教会

 ラテン語をカトリック教会が共通言語として定めたことにより、ヴァティカンはメディアとなり世界に対して情報発信を通じた影響力を強めた。しかしながら、各言語(民族)ごとに正教会がある東方正教会のように多言語で成りたっているものもある。次回、キリスト教をテーマにした本を書く際には、言語という一つのキーワードでいうと、この二つの間にどんな違いがあるのか展開していただけたらと思う…と村上氏。

 西欧的なキリスト教からすると東方正教会にはエキゾチックなイメージがある。東方正教はロシア、ギリシャ、シリア、レバノンなど、民族ごとに教会が細分化しており、東方正教というとギリシャ語やロシア語をまず思い浮かべるかもしれないが、実はアラビア語地域も多く含まれている。ニューヨークの東方系の教会、例えば、レバノン系の教会にいくとアラビア語で礼拝が行われている。友人に連れられてクリスマス礼拝に行ったことがあるがアラビア語を聞くとどうしてもイスラム教を連想し、クリスマスとは結びつかず、「同じキリスト教でもこんなに違うのかと衝撃を受けた」と岩渕氏は語った。
 また、祭壇の手前にイコノスタシスという隔壁があって、その向こう側に女性は入れない。近代以前の宗教という印象が東方正教では強く、しきたりや儀式を重視して、装束や教会そのものが華やか、かつ、劇場的で見ているのはとても素敵だが、現代人が精神の拠り所を求める宗教というより、支配階級の宗教というイメージがあるとのこと。

 玉置氏からは、ギリシャや北アフリカの一部にはどうやって登れるのかわからないような急峻な崖の中腹の洞窟に修道院があって、一般人の世界との行き来を遮断して、隠者、もしくは、ほとんど仙人のような暮らしをしている人たちもいるとの指摘があった。

 昨年、津田氏が『チェルノブイリ・ダークツーリズムガイド』の取材でウクライナのチェルノブイリに行った時、いろいろなものをイコンに見立てている点で、チェルノブイリ博物館が強く印象に残ったという。この博物館はチェルノブイリの原発事故をモチーフにしたいわば日本でいう広島の原爆資料館のようなものだが、日本の場合、展示はドキュメンタリー的に事実が淡々と示されている。しかしながら、チェルノブイリ博物館ではドキュメンタリー的展示は3割程度で、残りの7割はアートや宗教的なモチーフになっており、感情に訴える、日本では考えられないようなものだったという。それを許しているのは宗教的な価値観で、津田氏が最も衝撃を受けたのは、原発事故で被爆し、開頭手術した赤ちゃんの写真が祭壇のように構成された場所に展示されており、その額には開頭した際の十時の切り込みがあって、それを十字架に見立てているという日本では考えられないセンスで、見せ方や伝え方が全く異なり、驚いたと語った。

 岩渕氏によると、イタリアやオーストリアの教会の宗教画はロシアで描かれるようなのっぺりした顔ではなく、暗くもないし、立体的な西欧人の顔であるという。岩渕氏は旅行の際、東方正教の友人からもらった、聖ミカエルの顔の書かれたイースター・エッグを魔除けに持って行くという。また、東方正教会で見られるのっぺりした顔は見慣れて知っているので、ロシアに行ったことはないが、イコンといえばのっぺりした顔の人物描写という印象が強いという。ヨーロッパの教会の天井や壁面の装飾でもたくさん人物が描かれているが、立体的なので東方正教のものとは雰囲気が全然違っており、ビザンチンの流れをくむ宗教画はどちらかと言うと京都のお寺で見る、のっぺりした顔の仏様が雲の上にびっしり乗っているような雰囲気に近いように思う、と話す。

 カトリック教会の装飾が派手なのは、そこに祈りにくる人、つまり信者として支えている庶民のほとんどはラテン語が読めない人たちだったので、絵や像でキリストの教えを伝えようとしたのではないか。ローマ・カトリックはラテン語を世界共通言語にしたからメディアとして強かったというような単純な話ではないのではないか…と村上氏は言う。
 玉置氏は、フィリピン行った際に乗ったタクシーの運転席に、ごちゃごちゃしたマリア像がぶら下がっているのを見て、ある意味、彼らが教会組織を支えているのだと実感したとコメントした。

 キリスト教には複雑なレイヤーがあり、当然、信者には支配階級以外の人たちが大勢いた。庶民から広い支持を得るため、文字が読めない信者たちに向けて絵で聖書を説明する必要もあった。宗教改革の立役者であるルターは聖書の口語訳に挑戦したが、庶民が多く集まるような教会においては、道徳とは何かを手っ取り早く教えるツールとして、地獄絵図のようなものを見せて怖がらせることがあったようだ。現在は滅多に見ることはないが、立体ミニチュア版の地獄絵図のようなものをヨーロッパの教会の多くが収蔵している。日本の室町時代の地獄草子も同じ目的で、「悪い事をしてはいけないと教える方法が世界共通であるのは面白い」と岩渕氏は語った。

 ラテン語が興味深いのは、ユニバーサル・ランゲージであると同時に発展の止まった言語、いわゆる「死語」でもあるという点。もし、ラテン語がどんどん変化していたら儀式用の共通語にはならなかっただろう。数年単位での時差があったとしても、何年か前に世界の果てのどこかで習ったラテン語が他の所に行っても通じるということは、言語が変化していないからに他ならない。ユニバーサル・ランゲージとしての価値というよりも、死んだ言語、つまり文化となって、歴史の中でしか生きていない言語であるというところが面白い。英語は現代のユニバーサル・ランゲージだが、毎日使われている日常言語であるため、どんどん新しい言葉でてきていて絶えず変化している。そうすると地域によっては、3年も時差があったらボキャブラリーが結構違ってしまって、通じないことも起きてくる。
 一方、ラテン語は16世紀の人と今の人が喋っても通じる可能性が十分にある。『テルマエ・ロマエ』という映画があったが、現代の女性が古代ローマにタイムスリップする話で、「古代ローマ人と現代日本人がラテン語で会話をしたら問題なく通じるということはあり得るかも…」と岩渕氏。

 日本の教育がいかがなものかと政府も慌てている現在、頭の良い子は、もはや東大しか選択肢がないような中高一貫校には行かないで、海外のボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)を選ぶ。ベンツしか走ってない目黒通りのご家庭周辺は、みんな子どもをアメリカンスクールに送りこんでいる。英語が人類の共通語になったという事実を素早く理解した人たちがベンツ乗り回しているのではないか。
 アメリカのボーディングスクールでどういった教育をしているかというと、実は、古典ギリシャ語でギリシャ哲学、ラテン語でキリスト教や近代哲学の流れを教えている。これは何のためかというと、SAT(大学入試の際に受験する共通テスト)でとんでもない難解なボキャブラリーが出てきたりするが、それはラテン語とギリシャ語の組み合わせでできているので、高等教育に必要なボキャブラリーを構成していく上では身につけておいた方がいい教養であり、SATで高いスコアーを得るには必要な技術でもある。ラテン語を日本で喩えるなら漢籍だろう。世界で1%しか話されていない日本語で高等教育を受けられるという仕組みは明治の先達の方々が西欧の思想の輸入をして、翻訳してくれたおかげで、日本が急速な近代化を進める上でのメリットは大きかった。しかし、日本以外の非英語圏においては、通常、高等教育は自国語では行われず、近年では英語が標準になっているのではないか。古典ギリシャ語とラテン語が西洋文明の礎であることに疑いの余地はないので、英語圏のボーディングスクールで、古典を教えることの意味は大きいはず…と村上氏は述べた。

(続く)