第2回 文化的多様性の実現に向けて・・・
言うは易く行なうは難し
友人に連れられて、ユダヤ教の祝祭行事であるハヌカに生まれて初めて行ってみたら、そこにはシアトルのシナゴーグならではの、文化的多様性の祭典とでもいうべき光景が広がっていました。
- Photo:サンドイッチとスープのランチが和風のお弁当箱で出てくるのも文化的に多様なシアトルだから?
- ⒸJunko Iwabuchi
120年の歴史を持つ、シアトルのファースト・バプティスト教会の中に友人が所属するシナゴーグ(ユダヤ教会)は間借りしているとのことでした。宗教団体が別の宗教団体に間借りしている、しかも宗派を越えてということだけでも日本人的には戸惑ってしまうわけですが、感謝祭のディナーは料理を準備する段階からユダヤ/キリスト教徒が合同で行い、ユダヤ教のハヌカの儀式はキリスト教の祭壇を使って行われ、ユダヤ教のラビとプロテスタントの牧師が交代で話をするというプログラム構成には、本当に驚かされました。
教会の受付で一人あたり5ドルの会費(食事代)を支払って、サインペンで自分の名前を記入する名札をもらって中に入ると、会場は10人がけの丸テーブルが25~6卓用意され、すでに着席している人もいて、ごったがえしていました。しばらくするとテーブルは満席になったので、その夜の参加者数が250名を越えていたのは確かでしょう。
息子夫婦に連れられてやってきた車椅子の老婦人から、お父さんにあやされている赤ちゃんや、就学前と思しきおちびちゃんたち…の何系とは特定できないまでも白人と思われる人が多く見られました。その他にアフリカ系、スペイン語系、アジア系、ネイティブと思しき人など、さまざまな外見の人々が混ざっていて、友人いわく、「今夜はシナゴーグでいつも会う人より、教会の信者のほうが多いみたいね」とのことだったので、その多くはキリスト教徒だったのでしょう。
友人は、親しい友人の座っているテーブルをすぐに見つけましたが、他の人たちは初めてお会いする人ばかりだったので、テーブル中の人に自己紹介をしてから荷物を置きました。そこで、「蝋燭の準備をしなくちゃ。ここは荷物を置きっぱなしにしていても、誰も取る人なんかいないから大丈夫よ」と私をうながして、祭壇のある聖堂へと向かいました。ユダヤ教のハヌカでは独特の枝状に分かれた燭台を使うのですが、信者たちは各自家から自分の燭台を持ってきて祭壇に並べ、儀式のときに一斉に蝋燭に火を灯すのです。
それから食堂へと戻り、約30名ほどのボランティアの信者のみなさんが準備した七面鳥とクランベリー・ソース、スタッフィング、マッシュト・ポテト、サラダ、それとユダヤ人がハヌカのときに食べるラトケスというポテト・パンケーキなどがビュフェ形式で提供されているので取りに行きました。もう一つのビュフェ・テーブルにはベイクト・ハムや中国風の五目焼きそばなども並んでいて、料理の選択肢にも文化的多様性というか、「異教徒に寛容」なリベラルな精神が感じられました。というよりも、美味しいものを友人たちと食べる際、宗教上の戒律は二の次で良い・・・ということなのでしょう。
テーブルに座ると、周りの人たちが私に気をつかってくれて、いっせいに「今日着いたばかりですか? 東京からは何時間かかりました? 疲れたでしょう? 今日はきっとよく眠れますよ!」といった言葉をかけてくれました。その間も、お水を注いだり、ラトケスにつけるサワークリームを取ってくれたりと、「あなたを歓迎します」という精一杯のジェスチャーをしてくれるのでちょっと感動しました。もし、家族も友人も知り合いもなく、そこで生活をするために初めて到着したばかりの人だったら、その気遣いにじーんとなったのではないでしょうか。こういう時のアメリカ人はちょっとお節介ですが、本当に世話焼きで面倒見がいいなと思います。
七面鳥のローストと冬の季節にはお約束のデザートであるパンプキン・パイを食べてコーヒーを飲むと、いよいよハヌカの儀式だというので、聖堂へと移動しました。
ハヌカといっても、キリスト教徒も大勢混ざっての礼拝なのでヘブライ語のできない人も多く、しかも食後なので、参加者が居眠りしないようにと素晴らしい音楽のプログラムが用意されました。ハヌカの途中で、立ったり座ったりと指示されたので、疲れていたにも関わらず、奇跡的に居眠りをしたり気絶せずに最後まで参加することができました。
今まで教会でコンサートというと、クリスマス時期はもっぱらメサイアとキャロルしか馴染みはなかったのですが、今回初めてオリジナル楽曲で教会やスピリチュアルな場でのパフォーマンスを中心に活躍するレイフ・パールマンさんという、素晴らしいミュージシャンと出会うことができました。信じられないような声域で、さらに歌う言語は英語はもちろんヘブライ語、アラム後、セファルディック系の15世紀頃のスペイン語、さらにはアラビア語など多岐にわたり、その力強い歌声と250名を超える会衆の足踏みや手拍子が重なった時に、2000年を越えるユダヤ受難の歴史が頭の中を一瞬で駈け廻るような、不思議な感じがしました。
ハヌカが終わってから、翌日の朝食の買い出しにスーパーへ寄って友人宅に車で向かう途中に、彼女が日課にしているご両親への電話に付き合ってスピーカー・フォンにしたプリウスの車内であれこれ近況についてお話をしました。彼女のお母さんから、いつも決まって私の母のことも尋ねられるのですが、そういう「きちんとした」お付き合いが友人のご両親とできていることに喜びつつ、いまだに”Girls!”というお母さんの呼びかけにちょっと苦笑しつつも、「気をつけて帰って、今日は早くお休みなさい」という言葉に、思わず「はーい!」と、友人とそろって答えたのでした。
(続く)