2013/11/06 13:56

キラキラでピカピカの1980年代・・・
リベラーチェといえばお婆ちゃんたちのアイドルだった!

Photo: Portrait of Liberace in his sitting room, Los Angeles, 1973 ⒸAllan Warren

キラキラでピカピカの1980年代・・・
リベラーチェといえばお婆ちゃんたちのアイドルだった!

by 岩渕 潤子(いわぶち・じゅんこ)/AGROSPACIA編集長

 スワロフスキーのクリスタル・ビーズをびっしり縫い付け、羽根飾りで埋め尽くされた衣装で登場する、いつも満面笑顔で、ちょっと猫背の奇妙なおじさん…それが1980年代に私がTVで目にしたラスヴェガスのピアニスト、リベラーチェの姿だった。普通の人ならぎょっとする衣装ではあるが、日本には宝塚というものがあるので、私は衣装の派手さにはさほど動揺しなかったように記憶している。

 彼は、そのびっくりするような、お金のかかっている衣装を含めて「ミスター・ショーマンシップ=究極のエンターテナー」と呼ばれ、観客に向けてのトークは”おばさん”そのものだったが、一度座ってピアノを弾きはじめると、まるでマシンガンのように正確、かつ、力強いヴィルトゥオーゾぶりを見せ、その演奏は、むしろ、いかにも男性的といった印象で、ラスヴェガスを訪れるマダムたちには大受けだった。マダムたち…と言ったが、客席を埋め尽くしているのは高齢婦人と、妻にしかたなくついてきた夫たちといった風情で、私の印象では、リベラーチェとは「お婆ちゃんたちのアイドル」だった。なので、彼がゲイであったかどうかなど、まったく考えたこともなかったし、ましてや、彼に若い男の愛人がいたかどうかについても、興味はなかった。そんなことは、どうでも良いことだったのである。

Photo:『恋するリベラーチェ』より
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 今回、映画『恋するリベラーチェ(Behind the Candelabra)』を見て、彼が亡くなったのは1987年のことだったことを知り、私がTVで見かけたのは、実は、彼の最晩年だったのだと思い至った。若い頃からファンだった女性たちが、彼と共に年老いて、お婆ちゃんになって、夫を連れて、ラスヴェガスのショーを見にきていたのだろう。アメリカの家庭においては、概ねどこの家でも、お婆ちゃんたちによるリベラーチェの評価は高かった。それは、彼が「母親思いの孝行息子」として知られていたからかもしれない。

 リベラーチェが亡くなって26年の歳月が流れ、世の中は変わり、アメリカでは連邦高裁が2013年6月26日に同性婚を認める前提となる判決(実際には「結婚防衛法=DOMA」は違憲という判断が下されたに過ぎず、同性婚そのものの是非は各州の判断に委ねられている)を出し、バラク・オバマは、「同性婚は認められるべきだ」と公言したアメリカ史上初の大統領となった。しかし、リベラーチェが活躍した1950年〜80年代、みずからを同性愛者であると、たとえ彼以外のすべての人がそう思っていたとしても、認めるわけにはいかなかったのだ。