2013/03/27 12:00

香港国際映画祭 エグゼクティブ・ディレクター
ーロジャー・ガルシア氏に聞くアジアのコンテンツ・ビジネスの今、そして未来ー

Photo:HKIFF事務局入り口に掲げられたバナーとR. ガルシア氏 Ⓒ Junko Iwabuchi

かつての”映画好き青年”が世界を一周して香港に帰ってきた! Vol.2 / 全12回

by 岩渕 潤子(いわぶち・じゅんこ)/AGROSPACIA編集長

Q:香港映画祭の歴史について教えて下さい

アジア初の国際映画祭 2:映画を上映するだけでなくバイリンガルでのカタログ出版も

 私たちの映画祭がスタート当初から果たした大きな役割として、英語のテキストを含む、バイリンガルでの出版活動が挙げられます。1978年には香港の映画に関する本は3冊ぐらいしか存在しなかったのですが、映画祭の度にプログラムを含むカタログを出版してきたので、すぐに出版点数は2倍となりました。すでに映画祭は36回を迎えるので、香港映画についての書籍が36冊出版されたことになります。

 出版活動を英語でも行うことにより、読者が世界中に広がりますから、出版活動そのものが香港映画産業のプロモーションにもなるわけです。

 その結果、「どうやったら出品できるのか」といった映画制作者、各国文化機関からの問い合わせが私たち事務局あてに来るようになり、上映作品が増えるにつれて、今度はベルリンなどヨーロッパの映画祭から「アジアの作家の作品を上映したいのだが……」といった相談が舞い込むようになりました。当時はまだアジアでは他に国際映画祭が存在しなかったので、私たちは、アジア映画のエキスパートとしての地位を確立することに成功したのです。

 1980年代になると、アジアの他の国でも国際映画祭を開催する動きが出てきました。一つはシンガポール、それから東京です。1979〜80年と香港国際映画祭の視察に来て、その翌年から自分たちのプログラムを開始したハワイ国際映画祭は、私たちが直接影響を与えた映画祭の一つです。この映画祭は、現在、合衆国内で開催されている映画祭の中で、最も充実したアジア映画のショーケースとなっており、私たちは今も強いつながりを維持しています。

世界的なスターが中国語圏から続々と誕生

 もう一つ、1980年代以後の動きとして、中国映画のニューウェーブ…要するに、香港、台湾、中国本土を含む、世界に散らばる中国系の映画作家の作品紹介があげられます。この中から、今では世界中の誰もが知るチェン・カイコー監督 などが出てきています。そして、1980年代はジョン・ウーアンディ・ラウの活躍もあって、香港映画の黄金時代といわれています。

 1990年代は、残念ながら、香港映画にとってはあまり芳しい時代ではありませんでした。映画産業への投資が枯渇し、その前の時代に活躍したフィルム・メーカーの多くは、すでに活躍の場を海外に移していたのです。

 また、1990年代は、東京、シンガポールなどが映画祭運営に力を入れ、釜山の映画祭も始まったので、アジアの中での映画祭どうしの競争も、かなり厳しいものとなってきました。とはいえ、東京国際映画祭は、松竹、東宝など、日本のメイン・ストリーム作品の紹介に熱心だったのと、映画祭の開催時期がかなり違ったので、特に問題はありませんでした。開催時期とプログラミングが最も近かったのは1987年から始まった(映画祭の開催は1988年から)シンガポールでした。

 シンガポール国際映画祭は、一時は非常に注目された映画祭だったのですが、今はすっかり影が薄くなってしまいました。政治的な介入が直接あったということではないのでしょうが、シンガポールの場合、運営事務局が映画表現の取り扱いをめぐって、政府とは相いれなかった部分があったようです。また、政府の影響を嫌って、優秀な人たちがオーガナイザーから外れてしまったことも関係があるのかもしれません。(*1)

*1:シンガポールではポルノが禁止されており、性描写の多い作品の場合、該当部分がカットされたり、上映そのものが許可されないこともある。2008年には、日本の廣木隆一監督作品を含め、計4本が映画検閲委員会の審査に通らず上映されなかったことが映画関係者の間で注目を集めた。

PROFILE

ロジャー・ガルシア氏プロフィール
香港国際映画祭 エグゼクティブ・ディレクター

2010年9月より香港国際映画祭事務局(正式名称は Hong Kong International Film Festival Society)で、香港国際映画祭 (HKIFF), エイジアン・フィルム・アウォーズ (AFA), 香港=アジア・フィルム・ファイナンシング・フォーラム (HAF)の運営責任者として辣腕を振るっている。香港生まれだが、英国のボーディング・スクールで育ち、 リーズ大学で映画について学び、卒業後、二十代の 半ばで香港国際映画祭の立ち上げに尽力。その後渡米し、自身もプロデューサーとしてインディーズ、及び、ハリウッドで映画制作に携わり、世界各地の映画祭でアジア 映画上映のプログラミングに関与してきた。カリフォルニア州のバークレーに自宅があるが、現在は香港ベース。美味しいものが大好きで、料理が得意 という一面も。